「崖の上のポニョ」

監督・原作・脚本 宮崎駿



はっきり言ってこの作品にストーリーは無い。メッセージ性もない。
説明不足(というよりも説明されていない)事柄も多く、物語の展開も破綻している。

ではつまらないのかというとそんなことはない。
少なくとも上映時間中はまったく退屈しなかった。
それどころか自分はこの作品を「傑作」だとおもう。


この作品は「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」でも随所に見られた「宮崎駿のイメージの断片に動きをつけて繋ぎ合わせる」という作業の集大成といえよう(その為にCGを一切使わないという念の入れようだ)。
だからこそ、そのイメージが「面白い」と思える人にはこの上なく面白く、「つまらない」と感じる人には苦痛でしかない。だからこの作品は「千と千尋の神隠し」と「ハウルの動く城」が気に入った人間だけが観れば良い。そして面白いとおもった人間はきっと「もう一度観たい」と思うだろう。

しかし、この理屈も所詮理屈でしかない。なぜなら宮崎駿自身が「この作品は子供に喜んで貰うために作った」と明言しているからだ。この場合の子供とは主人公の「宗助」や「ポニョ」と同程度の年齢、すなわち5歳程度の未就学児童をさす。この年齢の子が好む「童話」にはストーリー性もメッセージ性も整合性もないに等しい(あるものもあるが多くはあとから大人が付け足したものである)。そういった意味でこの作品は正しい「童話」なのだ。

重ねて言うが、この作品は「千と千尋の神隠し」と「ハウルの動く城」が気に入った人間だけが観れば良い作品である。

先般ネットで「カーチェイスのシーンが一番面白く、多くのファンはこの傾向の作品を求めているはず」との感想を読んだが、冗談ではない。カーチェイスのシーンは確かに面白かったがはっきり言ってあのシーンは無くてもこの映画全体にはまったく関係が無い。要するにあれは宮崎駿の「カリ城のファンはこういうのが観たいんだろう。やればできるんだよ。」というファンサービスに過ぎない。

「ルパン三世 カリオストロの城」は確かに傑作だが、クリエイターに対して「アレと同じようなものを作ってください」というのは侮辱だということに気がつかないのだろうか。
宮崎駿はスタジオジブリを立ち上げた後「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」と製作し、「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」での記録的なヒットのあと「天空の城ラピュタ」、「魔女の宅急便」では方向転換し、興行収入を落とし、更に自分の飛行機趣味丸出しの「紅の豚」では興行的には失敗した。しかし、その後「もののけ姫」で興行収入の記録を塗り替えた。にもかかわらず「千と千尋の神隠し」ではまた方向転換し、「もののけ姫」を上回って見せた。
このことから解るように宮崎駿という人物はヒットしたからといって安易にその系列の作品を続けて作る人物ではない(むしろ「ハウルの動く城」で興行収入が落ちたからこそ同系列の「崖の上のポニョ」を作ったのかも)。したがって、「ルパン三世 カリオストロの城」や「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」を求める人はこの作品を観なくてもいいのだ。


上記が「崖の上のポニョ」を見てすぐに考えたことだが、この理屈でポニョが記録を塗り替えるようなヒットになったりすると日本国民全員が宮崎駿に思考統制されてしまうような気もするので、あえてポニョの欠点を挙げておこう。自分は宮崎駿の作る作品は好きだが宮崎駿の信者ではないので。

ネタばれになるので以下の文章は未見の方は読まないで欲しい。










まず、キャラクター。ポニョの父親である「フジモト」とは何者なのか。作中ではまったく触れられていないが実はパンフレットに出自だけは書いてあった。
それによると「フジモトはジュールヴェルヌの小説「海底2万リーグ」の登場人物で、主人公であるネモ船長駆るノーチラス号唯一の東洋人である」とのこと。って、そんなこといわれても殆どの観客は知らないだろうし、なぜ新規キャラクターとせずこんな内容的には全然関係ない140年も前の小説のキャラクターを使用したのかまったく不明である(これでは何も解らないのと同じだ)。ポニョの母親の「グランマンマーレ」も同様。大地母神の海版なんだろうが具体的な説明はなし。

続いてストーリー。フジモトはポニョが魔法を使い放題なため自然界のバランスが崩れたと言っているがポニョはそれほど無制限に魔法を使っていただろうか?そもそも大前提の「人間になったこと」、「フジモトが入ってこれないように結界を張ったこと(たぶん無意識)」、「宗助のポンポン船を大きくしたこと」、「赤ちゃんの感情を読み取ったこと」、「水の上を歩いたこと」これぐらいではないだろうか。
とても自然界のバランスが崩れるほど無制限に魔法を使っているとは思えない(しかもたったこれだけで疲れて寝てるし)。次にひまわり園に行く途中出会った赤ちゃん。この赤ちゃんはなぜポニョを見てぐずりそうになったのか、また、ぐずりそうになった赤ちゃんをポニョがグリグリしたらなぜ機嫌がよくなったのか。そもそもこの親子との出会いのシーンそのものに何か意味はあるのか。
3番目、ポニョが入るのをためらったトンネルはなんだったのか(特に説明も無くポニョは元の魚の姿に戻ってしまう)。
4番目、トキさんだけは頑なにフジモトを拒み、宗助を助けようとするが、このトキさんの抵抗には意味があるのか。
5番目、グランマンマーレは宗助とポニョがひまわり園にたどり着くことを「試練」といっていたが、試練というほどの困難があったか。
それとこれは細かいことなのだが宗助の父親が急な頼まれ事ができたため家に帰れなくなるというシーン、一介のサラリーマンならともかく海洋船の船長がいったいどういう頼まれ事を誰からされたら帰れなくなるのか。気になる。

最後に物語の構造そのものの話だが、ラストシーンで宗助に対してグランマンマーレが「ポニョの正体は魚だがそれでもあなたはポニョを愛せますか」と尋ねる。すると宗助は「魚のポニョも半漁人のポニョも人間のポニョもみんな好きだよ」と答える*1。しかし、この答えは宗助が今まで散々行動で、言葉で表している。なにしろ、人間のポニョが宗助の前に現れたその時から「ポニョが人間になって戻ってきた」と言っているのだから。観客にとっては「何を今更」なのだ*2

以上が冒頭の言葉の真意だ。物語に整合性を求める人にとってはこの作品は「駄作」だろう。
繰り返しになるが、それでも自分はこの作品は「傑作」だとおもう。

最後にひとつ心配なのはこの映画を見た後で縁日の金魚すくいで取ってきた金魚を水道水に入れて死なせてしまう子供が続出するのではないかということだ。あのシーンは問題だとおもうぞ。


*1 このシーンは「千と千尋の神隠し」で豚になった両親を千尋が当てるシーンを髣髴させる。だが、千尋が湯屋での労働によって物事の本質を見極める「目」と仲間を手に入れたためこのシーンは盛り上がるのだが、「ポニョ」では観客が既に答えを知っているため盛り上がりに欠ける。

*2 ではどういう展開なら納得がいくか考えてみる。まず、人間になったポニョが宗助の前に現れたとき「ポニョが人間になって戻ってきた」ではなく「ポニョそっくりの女の子だ」という。また、ポニョが自分の名を「ポニョ」だと名乗っていたが、これも宗助が「以前友達だった金魚が君そっくりだったのでポニョと読んでいい?」と断ってからポニョと呼ぶようになる。で、この後の「試練」だけどポンポン船で出発することが「勇気の試練」、親子との出会いのシーンは、自分たちの食料をあげることができるかどうかの「慈愛の試練」、トキさんのシーンは全面的に作り直して誘惑に負けないかどうかの「決意の試練」、そしてトンネルのシーンは「手を握っているはずのポニョがいつの間にか魚になっていて、女の子のポニョが本当に魚のポニョだったということに宗助が始めて気づく」という「真実の試練」。こうすれば宗助とポニョがひまわり園に来るまでの道程は「試練」足りうるし、宗助がグランマンマーレに「ポニョを愛せるか」と聞かれ「魚のポニョも半漁人のポニョも人間のポニョもみんな好きだよ」と答えるシーンが生きるのではないだろうか。


戻る


[PR]看護師の好条件求人なら:転職のプロがサポート!年間5万人が利用